ゲノムについて想うこと
会長就任以来“ゲノム”が脳裏を去ることがない。
この間ふたつの出来事があった。一つは私自身が深くかかわった日中合作のカイコゲノムプロジェクトのことだ。4年前(2003年12月)に遡る。中国がX6, 日本が X3 どちらも中途半端なWGS配列を決定した時点から、双方のデータを融合してX9 アッセンブリーを目的とする共同研究(中国語では合作)の模索がはじまった。どちらも国家的事業という面子があるから融合は容易ではなく、とりあえず、それぞれが自前のデータで論文として発表し(日本はDNA Research, 中国はScience)、あらためて検討にはいったのは2005年4月のことであった。それから2年、日本からfosmid end 配列などの情報を追加して、ようやく2007年4月、重慶において合同論文の作成作業開始の調印にこぎつけることができた。
重慶で3回、東京で2回ひらかれた一連の国際会議のなかで印象的な出来事があった。それは、2回目の重慶の会議に初めて北京のBeijing Genome Institute (BGI)から若い情報研究者Jun Wang 博士が参加した時に始まった。重慶西南農業大学の関係者の多くは日本への留学経験があり日本のカイコ研究者と個人的にも国際的なカイココミュニティーのなかでも親しい関係にあるため、それまでの会議は日本語が飛び交う友好、協調的な雰囲気に包まれていた。そこに、過去のしがらみと日本語に無縁で、流暢な英語をしゃべる情報研究者が現れ、会議の主導権を奪ってしまったのだ。
Wang 博士は1976年生まれ、99年北京大学卒業、2002年PhDを取得している。人工頭脳分野の教育を受けたが、99年からBioinforma
tics 分野の研究に従事している。MITゲノムセンター、ワシントン大ゲノムセンター、サンガーセンターなどで短期間研修を経験しているが、留学といえるような記録はない。いわば純粋に中国産といえるようだ。このような情報科学分野ですぐれた能力をもち、国際性を備えた人材が中国で育っている事実を目の当たりにしたとき、素直には信じられない思いであった。現在Bioinfomrtics Departmentのヘッドである彼は中国科学アカデミーの正教授、北京大学の客員教授、さらにSouthern Denmark 大学とAarhus 大学の客員教授を兼任、全体で十数人のPh.D.students を指導しているという。
この若者がkey player の一人となって99年に創設されたBGIは経済成長の追い風にのって、世界有数の大量ゲノム研究センターに成長している。北京とHangzhou (杭州市)、二つのキャンパスを合わせると、112台のキャピラリーと6機のSolexa (Illumina社)シーケンサーを備え、一日に2Gの短い(30-50b)配列と50Mbの長い(~600bp)配列を世界最低コストで決定できると豪語している。センターには100人を越えるbioinformatics 専門家が7機のスーパーコンピュータ(約100 Terabyte)を駆使して、data processing, data analysis, data warehousing を行っている。ヒト、イネ、カイコゲノムの国際プロジェクトを終了して、現在はデンマークとのブタゲノム、米・英国とのニワトリゲノムの共同研究と独自にはパンダゲノムと腸内細菌メタゲノムに挑戦中のようだ。
Wang 博士自身はIntegrative Biomedicine の分野に焦点を当て、分子から細胞レベルのゲノムワイドなデータを生産(data generating)し、抽出(data mining)する統合的プラットフォーム作りに挑戦している。とにかく陽気で開放的、まるでアメリカの若者と会っているようで、朝一番に出会って、研究の哲学について、山登りのこと、私のチョウの趣味と研究のことを共通語(英語)で語り合うのが楽しみであった。BGIセンター100人のスタッフの平均年齢は2003年時点で24.5歳と報じられている。Wang博士と同時代の若者が中国の民主化政策の中で、健やかに育ってほしいものである。
第二の事件はワトソンのゲノム配列公開のニュースだ(2007年5月28日、ニューズウィーク)。ワトソンのゲノム多型を知りたいとは思わないし、Wangと中国ゲノム事情と即、繋がるようにも見えない。しかし、特定の個人の全ゲノム情報が公開されたことが、分子博物学時代の黎明をつげる象徴的な出来事だとしたらどうだろう。いや「だろう」ではなく、そうに違いない。微生物から霊長類まで、ゲノムリストは増え続けている。ワトソンゲノムはヒトのHapMap 計画を飛躍的に推進するだろう。生物多様性ゲノム学とヒトゲノム学は着実に進行している。しかも、この博物学のルネサンスは膨大な記述の学にとどまらず、生物科学・情報学・数学の融合によって、未知の普遍的生命原理の追求から個別現象を推論する演繹的手法を開発する新しい科学分野を拓くに違いない。
この科学の変革は米・英(欧)に先導されている。中国は追いつこうとしている。日本はどうだろう、機能にこだわってスタートで躓いた日本はゲノム科学のプラットフォーム作りに遅れをとってしまった。問題なのはそれに気づいていないことだ。配列決定が軌道に乗ってから、最近6-7年間の推移をみればあきらかだろう。日本の配列決定と情報解析能力はほとんど進化していない。メダカゲノムの解読で人間の病気が解決するかのようにはしゃいでいるのは、後に続くものがないことの証拠だろう。シーケンサーなどの新技術はお金で買うことができる、問題は人、新しい科学を担う人材が育っていないことだ。Wang とやりあった日本の若手情報研究者が「もうだめだなーカテッコないよ」とつぶやいていたのが忘れられない。
投稿者:日本ゲノム微生物学会会長 吉川寛